2015年4月26帰京集合写真

2015年4月26帰京集合写真
22015年4月25日~26日山梨県にツアーに行きました。26日東京へ帰る前にまだ居残った皆で集合写真 photo by Arisan

2014年10月26日日曜日

痛い。痛い。痛い話。

総合建築手元業のおいらは、最近友人のタイル屋の手伝いでマンションの改修工事をやっておった。18階建てやで。エレベーターホールの前でセメント練って、バケツに入れて狭い足場の上を300m程1日に何回も運んでおった。したら、3日ほどたったらぶつけた訳でもないのに左膝が痛くて歩けんのよ。故障者リスト入りだわん。日本シリーズにも出られんわ。でベットに横たわっていたら、今までの怪我をいろいろ思い出したから適当に書くわ。みんなも痛がってくれ。尚、暴力事件及びワイセツ関係は除くで。


きゃわいい

1960年頃(2歳)
大金持ちのおぼちゃんだったおいらは、沢山のおもちゃに囲まれて暮らしておった。ある日、2階の
窓のレールの上で電車を握ってガタンゴットンしてたんや。手すりの無い腰高の窓や。で気が付くと
空中や。きっとママンが将来を悲観して押したんだな。地面は土だったんだが、残念ながらその先の有刺鉄線に右足首が引っかかって止まったぜ。次に覚えてるのは、古い丸形のトヨタクラウンの救急車の中や。この時頭を打ったおかげでその後の人生がおかしくなったんなや。たぶん。右足首に4針傷有。

1963年頃(5歳)
聡明で豊かな家庭の子息が通う幼稚園に通っておったが、お遊戯が苦手なおいらは、園から脱走をはかった。園舎を飛び出し一目散に隣との境の塀に飛びついた。が、大好きな手塚先生の声に振り返り、天辺でバランスを崩し隣の蕎麦屋さんのざるが干してある台の上に顔から落下。そのまま園長先生の観音開きのトヨタクラウンで病院に。打撲、切り傷多数。この時顔を打ったおかげでこんな顔になってしまったんや。たぶん。


大滝すべりやで

1965年頃(小2)
その頃大人気だった船橋ヘルスセンター(ちょちょいのちょい)父上と母上と真夏の巨大なプールと大滝すべりへ。興奮したおいらは、1日中大滝すべりに何度も挑戦した。しかし、帰りの京成上野行き急行電車の中で熱が出てきて股間がとても痛くなったんなや。泣きながら帰り翌日母上におんぶされて、お医者さんへ。大滝すべりのし過ぎで金玉が摩擦熱で腫れてしまったんや。看護婦さんにお薬塗って貰ってお帰りくん。竿の方にも塗って…おっとこの時の摩擦のおかげでこんな○○○なったんなや。絶対。現在秘密の後遺症有。

1967年頃(小4)
父上が緑屋の月賦で自転車買ってくれたんや。走るより早い手段を手に入れたおいらは、ブレーキを掛けずに走り回っていた。東京スタジアムの前の千住間道に飛び出したおいらは、キッチリ日産サニーバンの下敷きに。丁度通りかかった日産セドリックのパトカーに乗せられ救急病院へ。サイレンはウーウーやで。左足骨折。自転車は廃車や。月賦だけ残る。
お、事故の保険金はどうなったんやろ?

この頃、小さな怪我多数。母上がお友達に「男の子は育てんの大変ですわ。お医者様ばかりで。おっほほ」と嘆いておった。

中学生
だいぶ落ち着いてきたが、ぼちぼち暴力沙汰が出始める。


膝擦りやで

1975年頃(高1)
自転車よりはるかに速いバイクを手に入れたおいらは、レーサーの真似事をしてよく峠道を攻めていたんよ。この頃は、暴走族の全盛時代時代で都内走ってると、スパナで殴られたりガソリンかつあげされたわん。あいつら灯油ポンプ持って走ってるのよ。赤いパフパフするやつ。ドクター中松が発明したのよん。いつものように秩父の正丸峠を攻めてたんよ。めちゃめちゃ上手いやん。
おいら、グランプリレーサーになれんじゃね。右コーナー、左コーナーすすいのすいや。調子に乗って次のコーナーへ侵入。ブレーキングも姿勢もばっちりや。お、何だ、道路の真ん中に黒い塊が。氷が張ってるんや。あれま、膝擦りどころか肘擦り、いや全身擦りや。バイクから投げ出されたおいらは、崖下へダイビングやで。こうゆう時はなぜか全部スローモーションになるんやで。
暫く気を失ってたが、通りががりの人達に担がれて道路へ。大した怪我は無いが左のつま先が変な方向いてるわい。泣きながら
自走で帰宅。左足首骨折。アーメン。

20代 さまざまな怪我多数。ここには書けないが、のみ亭で一話50円で語るで。痛いけどめちゃおもろいで。


気を付けろ


1994年頃(おっさん)
朝の甲州街道をスクーターで走っておった。もう落ち着いていたが、ウ〇コが漏れそうなので少し飛ばしていた。したら路地からいきなりでかい猫が飛び出して来て、おいらは猫に乗り上げ転倒や。で10回転位して反対車線へ。目の前に大型ダンプ。急ブレーキの音が響く。おいらは「僕は死にませーん」て叫んだわよ。危機一髪止まったぜ。何故か又スローモーション。目の前にダンプの
ナンバープレートがあったよ。因みに八王子ナンバーだった。でまた救急車や。最新型のハイエースだったよん。サイレンはピポーピポーやった。
左手首骨折、全身打撲。スクーターは大破。なみあぶだぶつ。後日、加害者、住所不定の猫で労災保険出たで。たまりゃん。

書いてて古傷が痛むわん。普通の痛くない人生を送りたいよん。神はどこまでわたくしに試練をお与えなさるのか。
ちくしょう、左足庇ってたら右足も痛くなってきたぜ。中足も不調だしプンプン。



脂肪と水しか溜まらん、あび太


マキシムザホルモン  かっちぇえ♡

(^^♪今の気持ちの1曲♬

メス豚のケツにビンタ(キックも)    

マキシマム ザ ホルモン   アルバム予襲復讐より
                       
作詞作曲 マキシマムザ亮君

電車に乗って 座った横に 化粧するブス(化粧するブス)
ファンデーション塗って つけま貼り 変身後ギャル (変身後ギャル)
急ブレーキで車内揺れて 肌重なり
ぼ、僕を睨み 舌打ちしたあのビッチ

スクリーム スクリーム スクリーミング FA×× OFF
すっぺえ すっぺえ すっぺえぜ oh maygod!
スクリーム スクリーム スクリーミング FA×× OFF
永遠のフラストレーション

yeah!!
メス豚のケツにビンタ(キックも)
メス豚のケツにビンタ(キックも)
メス豚のケツにビンタ(キックも)
メス豚のケツにビンタ(キックも)
メス豚のケツにビンタ(キックも)
メス豚のケツにビンタ(キックも)

おい、毎朝武蔵野線の車内で朝マックしながら化粧するブス、お前らに贈るぜ "(-""-)"

2014年10月14日火曜日

BANDやろうぜ!

いみじくも細野晴臣氏はおっしゃった。
「いいBANDは、いいBAND名がついている。」
名言である。
単純にして明解である。
そして、この公式はかなりの確率で当たっている。
センスと主張とインパクトがあって、一度聞いたら忘れない。それがいいBAND名だ。
曲とか唄が良ければ、後付けで馴染んでくるんだヨ・・・との指摘もあるだろうけど、おおかたの場合、BANDを作った時、BAND名を付けているだろうから、その時点でBANDは始まっているのだ。

昔々のBAND名は簡単だった。言い方変えるとダサかった。ヒネリもなくただそのままってのがほとんど。俺の小学中学時代、1950年代から60年代のBAND名は、地名やリーダーの名前、それと●△◆☆ブラザ―ズ(=シスターズ)みたいなのがよくあった。
それはそれでストレートでわかりやすいってのもあったけど、あきらかにヤッツケでつけたな、ってのもあった。
それとも、バンドの名前なんて軽~く片づけられていたのかナ?
殊に日本のGSなんかだと、はっきり言ってナサケナクなるような名前だった。事務所側が「これでいってみよー!」なんて勝手に付けたってケースも多かったみたい。
パターンとして、動物(獣・鳥・虫・・・・)系の名前が半分くらいを占めていた。
BEATLESの意味だけが直進してしまったんではないかな。カブト虫って言い方だけど、BEATに変えてヒトヒネリ入れたってのは届かなかったみたいだね。
60年代の後半になって、ヒッピー・反戦・ウッドストック~のあたりからBAND名に「名は体を表す」みたいなのが増えてきて、BAND名を知るのもワクワクしてきた。そして、BANDの方向性やカマエ方なんかがわかって、納得したりコーフンしたりした。
つーワケで、今回は俺の通ってきたBANDの名前のことをちらっと書いてみたい。チョー個人的なことで、マコトに申し訳ない。まんずまんずすまんすまん。
きりなくだらだらするので、セッション的なBANDは省くことにする。

【鹿鳴館】1973年~1974年
高校を卒業した次の年、葛飾バッタ村のコンサートがあった。それまでずっと一人で歌ってきたが、急ごしらえでBANDを作り演奏した。メンバーは俺以外、葛飾野高校卒業生という編成で、GUITAR/S田・BASS/U澤(ORANGE COUNTY BROTHERS=OCB)・DRUMS
/???忘れた、の4人。俺の唄を4曲か5曲くらいやった。
この時のBAND名はS田が飼っていた犬の名前だった。それは恥ずかしいから公表しない。
翌年、第3回のバッタ村コンサートで「はっぴいえんど」みたいなBANDにあこがれ、日本語のロックをやりたくて結成した。
初期は俺が詩を書きS田が曲を付けて、「ゆでめん」からのパクリみたいな曲が多かったけれど、最終的にはアメリカ南部の音に影響されていった。
命名者は俺。日本語=和と、ロック=洋で「鹿鳴館」ってのを考えたんだけど、今、口にしてみるとヘビメタBANDみたいだなぁ。
あと、英文字表記だと「ROCK MAY CAN」ネ。ここダイジ。でもないか・・・
S田がM大生になったので、京王線に乗ってI校舎や渋谷のSスタジオなんかで練習した。ライブハウス・コンサート・学園祭・・・、話が来ればどこでもやった。コワイものなんてなかった。音が出せればシアワセだった。
メンバーは、VOCAL&GUITAR/日川(オレ)・GUITAR/S田・BASS/Y本・DRUMS/K田(OCB)後にK松・VOCAL/A尾の5名。
オレ以外はみんな大学生だった。

【DIRTY MERE COUNTRY BAND】1974年~1975年
鹿鳴館がメンバーの卒業・就職などで解散した。
その頃、俺とY本はカントリー音楽に惹かれていって、二人で「黒金音楽団」てのを作った。彼の部屋(黒金マンション)で曲を作ったり、録音したり、あちこちのライブ(高田馬場「???」や北千住「甚六屋」、小岩「???」)で演奏し楽しんでいた。
バッタ村のシンガーソング&ライターN川がそこに合流、結成された。
しばらくして、高校生だった高杉康史(やっちゃん)も加入、4名で活動した。
命名者は、N川。彼がその頃好きだった、「NITTY GRITTY DIRT BAND」からだと思う。「汚れてて単なるカントリーバンド」って意味だって聞いた。
俺とN川のオリジナル曲を中心に、JUG BANDからBLUE GRASSまで、やりたいモノだけをやった。
活動期間は、1年と半年ちょっとぐらいかな。新宿「ヘッドパワー」「開拓地」・三ノ輪「モンド」・立石「ぴいこ」・J大学祭・M高校文化祭・横浜のワケありパーティー・・・、思い出せるのはこんなトコ。
メンバーは、VOCAL&GUITAR/日川・BASS/Y本・VOCAL&GUITAR&BANJO/N川・F,MANDRIN/高杉康史。

【SON OF A GUN】1976年
Y本が通っていた音楽学校(六本木にあったプロ志向の奴らの学校だった)で知り合ったメンバーで結成した。メンバーの居住地がバラバラだったので、練習場所に苦労した思い出がある。青山や武蔵小杉なんかの貸しスタジオで練習した。
みんな上手でテクニックはあったけど、なんかまとまりがなかった。俺以外は学校の延長でいたのかなぁ・・・。
俺の曲もやったけど、Bonnie RaittやMaria Muldaurなんかもやったなぁ。メンバーの意向で・・・。そこらへんにもムリがあった。
最初の頃は、BAND名もなかった。2ヶ月くらいして、練習後の呑み屋で俺が強引に決めた。「コンチキショ―」ってな意味で、いい方にも悪い方にも使われる言葉だけど、ここにもムリがあったな。
メンバーは、VOCAL&GUITAR/日川・BASS/Y本・PIANO/Sa田・GUITAR/???忘れた・DRUMS/???忘れた、の5名。半年くらいの寿命だった。

【COUNTRY DRINKERS】【新高ドロップス】【プラサーズ】1978年~1981年
やっちゃんとは酒飲みバンドとして、「DIRTY MERE」以後もちょこちょこ演奏していた。「チャイナパンプス」とか「できんぼーいず」って名前も使った・・・
二人だけだとちょっとサミシイのでU澤に相談したら、彼がその頃加入してた「エドズバム」のフィドル弾き/小島康夫を紹介してくれ、3人で演奏活動を開始した。
主に西荻周辺の演奏が多かった。葛飾区立石のライブ喫茶「ぴいこ」でも一度やった。
BAND名はいい加減半分、シャレ半分で変えていった。
「COUNTRY DRINKERS」は、ずっと前から。やっちゃんと二人でやっていた頃からなんとなく付いてた。
「新高ドロップス」は「ぴいこ」でやった時だけ。俺が考えた。
「プラサーズ」は、当時やっちゃんが働いていた「ほびっと村/プラサード書店」から、小島が命名した。あの笑顔と共に。
メンバーは、VOCAL&GUITAR/日川・F,MANDRIN&GUITAR/高杉康史・FIDDLE/小島康夫。


COUNTRY DRINKERS/久我山O内パーティー 
PHOTO=なべいち

【GRANDMOTHER JOINT】1978年~1980年
バッタ村の活動はミニコミ誌の月イチ発行だけになっていった。
それでも音を出していきたくて、千葉県市川市でコンサートを3年くらい続けた。
「JOOK JOINT JUNK」ってコンサートタイトルを付けて、酒とつまみを持ち込み、音楽と騒ぐのが好きな奴が集まるパーティーみたいなフリーコンサートだった。
その時だけ演奏するBANDという形で結成した。
初期のメンバーは、VOCAL&GUITAR/日川・BASS/Y本・PIANO/Sa田・FIDDLE/小島康夫の4人。
その後、GUITAR/U田・DRUMS/W田・DRUMS/M田・BASS/U澤なんかに手伝ってもらった。
命名者はY本で、「お婆ちゃんのブットビ葉っぱ」。
なんか効きそうじゃない? って言ってた。


GRANDMOTHER JOINT
/Sa田・M田・U澤・小島康夫・U田・オレ

【すちゃらかしゃいにんぐ】1982年~
現在進行中のBAND。
現在のメンバーは、VOCAL&GUITAR/日川・GUITAR&F,MANDRIN&BANJO/高杉康史・BASS/宇佐見和夫。それとマドマゼルねーちゃんのACCORDION/竹廣類。
最近はこの4人で動いている。
結成の経緯とかそこらへんはこのブログであちこちに書いてるので省略。
命名は俺。
小島の墓参りの帰りに、小島の高校の同級生がやってる水道橋の呑み屋に寄った時、やっちゃんとうーちゃんに「BANDの名前なんだけど、こんなのどう?」と、2つ考えた候補の中から選んでもらった。
というワケで3人の総意が込められている。(そんなタイシタものではないか?・・・)
出どころは、吉本喜劇「スチャラカ社員」とジャック・ニコルソン主演映画「シャイニング」から・・・、なんてさらにどーでもいいか?


すちゃらかしゃいにんぐ/初期のすちゃらか 
画=小橋義寿


《営業2課 じゅんぼう》

2014年10月6日月曜日

「カラワン」のライブに行ってきました

9月27日(土)カラワンのライブに行った。
前日にメンバーがそろってのみ亭行った事は前回やっちゃんが書いた。
わしはその日阿佐ヶ谷の「A」でライブの打合せをして、途中からYさんと発掘の話になってしまい、
そうだ、くまさんも来ているのならば、9月にくまさんの家へ遊びに行った時のお礼を言わなくてはと
おもい、のみ亭へ向かったのだが、みんな帰った後だった。

翌日、14時15分に大久保でやっちゃんとじゅんちゃんと待ち合わせ。「A」の連中は14時に阿佐ヶ谷駅で待ち合わせと言っていたから連中もどこかで飲んでから行くのだろう。
わしらはやっちゃんがすでにを決めていた店へ向かう。新大久保に近いビルの地下だった。
席についてメニューを開くとビックリ。飲み物はオール280円、つまみの小皿はオール300円、隣の若い中国人の女の子が食べている鍋がとてもうまそうだったのだが、それは後で注文するからという事だそうだ。まずは生ビールとセロリとエビの炒め物、ピータン、唐揚げを頼む。午後の生ビールはおいしい。あてもおいしい。至福であります。途中でわしは日本酒八海山に変更。じゅんちゃんやっちゃんは生ビールのまま。あらかた飲んで食べた後に鍋を注文する。やっちゃんが棚に並べられた小分けした袋に入った具を選んでいく、それを麻辣味で作ってもらった。ちょっと辛いがうまい、わしは汗びっしょりこれが快感。続けて何杯か飲んでそろそろ行こうかと勘定をすると端数は負けてくれて3人で5000円也。いやあやっちゃんよくこんな店知っているね。先日はUちゃんとTぽんと来たと言っていた。

下準備が出来たので会場へ向かう。会場入り口でSとSちゃんに会う。SちゃんはRNOに道順を説明していた。3時位まで店を手伝っていたのでまだ着いていないみたい。中へ入りチケットをもらって席をさがす。「A」の連中も来ていた。上の方の席に座って開演を待つ。周りにはタイの人も結構いてタイ語が飛び交っている。


              じゅんちゃんのFBより転載

最初は豊田勇造さんとカイトゥンの演奏。豊田勇造さんもなんか肩の力がぬけて角が取れたようでとてもおだやかな感じで歌詞もメロディーもとてもよかった。カイトゥンのギターも出すぎずひかえめでとても好感がもてた。てれたような笑顔をときどき浮かべているのがいかにもタイの若者と言った感じだった。

カラワンは最初にスラチャイが出てきて「花」を唄った。バックはスラチャイの息子が付けていた。
会場のあちこちで一緒に歌う声が聞こえた。スラチャイが何曲か唄った後にモンコンとカイトゥンも出てきて。4人で演奏。モンコンの声とスラチャイの声が剛と柔というか激しさと穏やかさというか、二人のアンサンブルは何時聞いてもドキッとさせられとところがある。曲の予習をしてこなかったので曲は聞いたことが何度もあるのだが題名がわからない。でも何時聞いてもこころをゆさぶられてしまう。


                じゅんちゃんのFBより転載

20分の休憩。会場入り口ではビールとつまみも売っていて、なんとビールは300円つまみは200円開演前にも飲んだけど、再度買ってしまう。入り口前でいろいろ話す。くまさんは写真を撮りたいと言ったらこれをさげてといわれスタッフのカードを首から下げている。先日おじゃましたお礼を言う。ちえちゃんほうほちゃんにも重ねてお礼を言う。友部正人さんが来ていたので25年近く前にナモ商会で一緒にやりましたと挨拶をしたがちょっときょとんとしていた。休憩の20分を過ぎてもほとんどの人が戻らないので係りの人が催促に来た。

後半は豊田勇造さんも入れて5人で演奏。辛うじて題名を知っている「満月」「東京」なども演奏。「満月」はRNOが唄ってすちゃらかでもやったことがある。「東京ブルース」の時に友部正人さんが紹介されて舞台に上がりハーモニカで参加した。そして最後の曲。しかし、その後アンコールが2回もあって、さすがに2回目のアンコールは曲が決まっていなかったみたいで、いろいろ話しながら何という曲をやろうか考えていた。もっと詳しく曲の事とか書きたかったんだけど、ごめんなさいということで。ただスラチャイ、モンコン、カイトゥン、スラチャイの息子と豊田勇造さんの演奏はホームコンサートのようでとても楽しかった。スラチャイの声とモンコンの声のトーンのかさなりがまだ耳に残っています。


              じゅんちゃんのFBより転載

やっちゃんが帰りはここと決めた飲み屋にわしら3人とRNOで向かう。そこは大久保駅の側。入るとカウンター以外は畳敷き。懐かしい店に来たようだ。席に着くとおばちゃんが生ビールを持ってきた。まだ注文してないのになと思っていると、「サービスです」ええっ!すばらしいサービスです。
アサリの酒蒸し、枝豆、いいちこをボトルでたのむ。なんだかんだ話して飲んでぶりの塩焼き他にも少々。で、そろそろ帰ろうかという事になり、〆て4000円。間違いではなかったみたい。大久保の駅前でじゅんちゃんと別れ帰路につく。やっちゃんはこれから店を開く。わしはうまい酒と良い音楽を聴いて後は夢の中へ入るだけ。

営業一課 すちゃらか・たまらん・うーたろう